物理の歴史(電磁気)


Charles Augustin de Coulomn(1736-1806)

フランス西部のアングレームに生まれ,若年で軍隊に入る。毛髪や針金のねじれ弾性について研究した。この研究が1777年のねじり秤の発明へつながった。この装置は先んじることジョン・ミッチェルが提案している。クーロンはねじり秤を使ってニュートンの逆二乗の法則が電気と磁気の力の場合も成り立つことを1785年に証明した。1776年以降は度量衡制定に参加し,パリ大学で力学実験の研究をした。
  電荷が導体表面に存在することを示し,いろいろな表面電荷を比較した。クーロンは引力・斥力が,その間に伝達する物質がなくても遠隔作用で起こるとする2流体説の提唱者である。 アモントン(G.Amonton)によって発見された摩擦の法則を後に確認した。将校として植民地で要塞の構築などに従事したときに土圧の研究をしている。




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Georg Simon Ohm(1787-1854)
ドイツのエルランゲンで生まれ,他の物理学者と個人的に接触することなく,独立して研究を続けた。この地の大学で学びゴットシュタート,ヌーシャルテ,ベンバルムの学校で,30歳でケルンの高等中学校で数学と物理の教鞭をとった。ここで9年間多いに成績を上げた。
暇も本も実験道具もなかったが,錠前屋の父に鍛えられた腕で多くの器具を自分で作った。最初は相対伝導率についてのものだった。各種の物質でできている長さが等しく太さの異なる金属が同じ伝導率を持っていることを発見。さらに太さの同じ金属で実験し続け,長さが断面積に比例すると,同じ伝導率をもつという結果を得た。はじめは不安定な電池に悩まされたが,熱電池を用いて成功し,各種の実験から電気抵抗と電圧降下,電流の間に成り立つオームの法則を確立。つぎに,電池が直列の場合と弧状に並列に並べられた場合の電流の流れる場合の電流の強さを与える式を実験的に確立した。これらは1826年に発表された。

翌年「数学的に取り扱ったガルバーニの輪道」と題するオームの法則を理論的に導いた論文を発表したが,ベルリン大学のドーフェ教授に酷評され,また年報の執筆者に「・・・・オームの論文がいやすことのない幻想の産物で,その唯一の努力が,自然の尊厳から人の目をそらすことにあるとして,この本に背をむけねばならない」とまで言われ,すぐに理解されることはなかった。
  6年後ベルリンに住んだ後,1833年にニュルンベルグの工芸学校に奉職することになり,次第にひとびとにオームの研究が理解され,敬意を払われるようになった。レンツ(レンツの法則で知られる),ホイートストン(ホイートストンブリッジで知られる),ヘンリー(磁気の研究で知られる)らが,オームの業績を認めた。
62歳になって念願だったミュンヘン大学の員外教授に任命された。亡くなる2年前のことだった。
  他に音響学,光学に関する研究もしている。

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Michael Faraday(1791-1867)
ロンドンのニューイングトンで鍛冶屋の息子として生まれた。ほとんど教育は受けず,「最もありふれた内容のもので,普通の通いの小学校で読み,書き,算術の基本に毛の生えた程度のものを習っただけで,学校がひけると家か街路上で遊んだも」だったという。
1804年 本屋兼業の製本所で働きはじめた。ときたま,まわってくる科学書を好んで読んだという。
1812年 王立研究所でデービー(熱学,熱力学に貢献)の4回続きの講義を聞く好機に恵まれた。製本屋の仕事を好まなかったファラデーはデービー卿に,デービー卿の講演筆記を添えてノート(386ページだった)をだしたところ感銘を与え,1813年デービーの助手となった。その年デービーに随行してフランス,イタリア,スイスをまわり,帰国後独自の研究をはじめ,1816年最初の論文を発表。王立科学研究所でその後46年間住んだ。
1823年 塩素の液化,二酸化炭素,アンモニアの液化に成功。
1825年 ベンゼンを発見。1821年から電流の磁気作用の実験をはじめた。
1831年 電磁誘導を発見し磁力線の概念を導入した。
1833年 電気分解に関するファラデーの電気分解に法則を発見。電気化学当量を発見。
1837年 比誘電率を導入し,すべての電磁気現象は隣り合う粒子間の分子運動で伝播され,絶縁体はそうしたことで電気力の伝播に参加する,とする近接作用論を述べ,電磁界の概念を確立した。ファラデーはこの考えから伝播が直線的でなく曲線に沿うものと考え,これを「力線」と呼び,電気力の強度が絶縁体の性質とともに変わることを示した。
1838年真空放電でのファラデー暗部を発見。
1845年 反磁性を発見した。

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Andre Marie Ampere(1775-1836)
フランスのリヨン郊外で裕福な商人の子として生まれた理学,数学文学,哲学に優れた才能を発揮した。パリ理工科大学教授になった後学士院会員になった。才能は皇帝・ナポレオンに認められ教育総監に任命された(ナポレオンの晩餐の招待を失念して行けなかったなどの逸話が多数ある)。
1814年 アボガドロとは独立して気体の分子説を提唱した。
1819年パリ大学哲学講師、1820年天文学助教授、1824年コレージュ・ド・フランスの実験物理学教授、学士院会員となる。
1820年 エルステッドの研究に刺激され,2本の電流に流れる導体間に働く力についてのアンペールの法則を発見する。その後電磁気現象の統一的理論の研究を行った。円電流と磁石板は同じ磁気作用を持つことを見いだした(等価磁石の法則)。このことから、磁気の本性は分子内部の円電流によるという分子電流説を唱えた。また,エルステッドが電流の磁気作用を発見したことを聞き、さらに詳しく研究をし、右ねじの法則を発見した
アンペールは電磁気の基本法則を理論的に述べた論文を「電気力学」と名づけて出版した。
 個人的には父がフランス革命でギロチン台の露と消え(このとき精神的にうちひしがれ,何時間もぼんやりとして口もきけず空を見つめるか,砂を積み上げるだけで,約1年続いたという),28歳のとき妻が他界するなど不幸が続いた。63歳で亡くなって,その墓石に刻まれた辞世の言葉は「ついに幸せになった」であった。

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Allessandro Volta (1745-1827)
イタリアのコモで生まれた。
1774年コモ大学,1779年パビア大学,1814年パドバ大学の教授を務める。
気体の性質に関する研究を行ったが,その後電気学の研究に専念。
1781年 電気盆,検電器を発明。
1797年 接触電気を発見し,種々の金属について,ボルタ列を得た。
1799年 ボルタの電堆,ボルタの電池を発明し定常的な電流を得た。
電堆は1786年に発見されたガルバーニ(1737-98)の蛙の脊椎に銅製フックを挿入したところ,蛙と鉄製の枠につるすと蛙の足の筋肉が収縮するという実験に端を発している。ガルバーニは筋肉または神経が電荷を発生させると考え「アニマル電気」と命名した。
  ボルタはこの実験を確認し,電荷の発生源が動物でなく,2つの金属が湿った導体(蛙の筋肉)を介して接触させる必要があることを確認した。選んだ金属対の種類によって効果が異なることを示し,連続的に電気を供給できる装置を,銅板と亜鉛版の間に塩水を浸した布を挟んで制作し長時間ほぼ一定の電位差を発生させることができるようになった。この電堆の発明が,後の電池が使えることを含めた便利な生活に生かされていることは言うまでもない。

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