人は死んだらどこに行くのでしょうか?。

これは死後の世界があるのかないのかという事でもあります。

小さい頃は「お星様になった」とか「仏様になった」とか言われて素直に納得したのではないでしょうか。それなのに今は納得できませんか?。

私は、葬儀などでは「仏様の住む浄土(じょうど)に旅立った」と説明しています。

実際にそれがどの様な意味なのかとか、どのような世界なのかを説明すると、とんでもなく時間がかかりますので、とりあえず大きな意味でこのように説明しているのですが、ここではちょっと別の視点から話をしますね。

皆さんは、死後の世界があると思いますか?。

お釈迦様は、死んだらどこに行くのかについて回答しなかったといわれています。なぜかといえば、そんな事を考えても仕方がないからということです。今現在を大切にする仏教らしいとえばそれまでなのですが、さて、もう少し考えてみましょう。

皆さんは死後の世界があるかないかによって、今の生き方に影響がありますか?。

もし、影響があるとすれば、どういう点でしょうか。そして、死後の世界があるほうが今を幸せに生きられますか、それとも死後の世界がないほうが今を幸せに生きられますか?。

近年は、「信じる」という事が少なくなってきたように思います。特に、目に見えないものや科学的に証明できないものは、存在しないと考える人が増えていますし、科学的に証明できないものを信じている人を「おろかな人間」という目で見たりもします。

しかし、目に見えず、科学的にも証明できないものは、「存在しない」のでしょうか。
例えば、電波を見た事がある人はいますか?。電波は目には見えませんね。私は、昔、電子回路の設計技術者として長年働いていた事がありますが、電波を目で見たことは一度もありません。

しかし、ラジオは聞こえるし、テレビは映るし、携帯電話で話も出来るので、きっと電波はそこらじゅうに存在するのでしょう。実際に私も、科学的に電波の存在を証明することは出来ますし、存在していると思っています。

でも、それは本当でしょうか。測定器で波形を拾うことが出来たからといって、それが真実だという保障はありますか?。

また、現在の科学力があれば電波の存在を証明する事が出来るでしょうが、数百年前の科学力だったらどうでしょうか。証明する事ができるでしょうか?。きっと科学的に証明する事は出来なかったでしょう。しかし、数百年前にも何らかの電波は存在していたはずです。

つまり、目に見えずに、科学的に証明する事ができなくても存在しているものはあるのです。

逆に、科学的に証明できたとしても、人々に信じてもらえないものもあります。皆さんもよくご存知の、ガリレオ・ガリレイの地動説などが有名ですが、科学的に証明しても長年、世の中に受け入れられず、信じてもらえないものは歴史上、沢山ありました。

私は、地球が太陽の周りを回っていると学校で教えてもらい、きっとそうなんだなと思っていますが、実際に、自分の目で見たことはありませんし、望遠鏡で観察してデータをとったこともありません。そして、ほとんどの人は同じだと思います。しかし、それなのに、もし天動説を唱える人がいたら、多くの人は、「学校で勉強しただろう!」などと馬鹿にしたような目でその人を見るのではないでしょうか。

つまり、学校で教えてもらったというだけで、疑う事もせず、真実であると信じきっている人がほとんどだということです。

このように考えると、この世の中で、何が真実で、何が真実でないか。何が存在していて、何が存在していないのかなどということは、本当は誰にもわからないのではないかという疑問がわいてきませんか?。

所詮、人間が知っている事などは、極僅かな事しかありませんし、知っていると信じている事すら本当かどうか疑わしいものです。もしかしたら、100年後の世界で、「100年前の人々は低レベルの科学力しかなかったため、こんな間違った事を信じていました。」と学校で教えているかもしれませんよ。

だとしたら、自分の信じたいものを信じる方がいいのかもしれませんね。絶対にそれが間違っているとはいえないのですから。所詮、人間の知りえる事などは僅かなのですから。

それでは、みなさんは何を信じますか?。

私は、今幸せに生きられるものを信じていきたいと思っています。

どうせ、信じるなら、自分が不幸になるような事ではなくて、幸せになる事を信じたほうがいいと思いませんか。

死後の世界を見ることは出来ませんし、現在の科学力では存否のどちらも証明する事ができません。ですから、今、自分が幸せになれる方を信じたらよいのではないでしょうか。

もし、死後の世界が「ない」と信じる事で、現世を悔いの無いように一生懸命に生きられるというのであればそれでよいと思いますし、もし、死後の世界が「存在して」、一生懸命に生きれば仏様の住む浄土に行けると信じる事で、今を幸せに一生懸命に生きられるのならば、それでよいと思います。

つまりは、解らない事をあれやこれやと悩んで暮らすよりも、解らない事は考えても解らないのだから、自分が何を信じるかという事の方を大切にするのがよいのではないでしょうか。

お釈迦様が、死後の世界の事を語らなかったのは、そのときになれば分かることなのだから、今幸せに生きるためには、そんな事を考える必要は無く、今幸せに生きるために自分なりに「信じれば」よいのだということだったのかもしれません。

お釈迦様は、悩みや苦しみの中にいる人々を救うために、その人その人に合わせた話をしたといわれており、その結果、いつもお釈迦様の側に付いていた弟子は、相反するお釈迦様の話の内容に困惑していたという説も残されているので、きっと大切な事は「今を幸せに生きる」ことであり、その為に「信じる」ことも必要になるのだと思います。

人が死んだらどこにいくのかという問いに明確には答えませんでしたが、この問いに回答するとしたら
「あなたも必ずこの世を旅立つときがきますから、それまでは次の世界のことを考えるのではなくて、今の世界のことを考えた方が、今を幸せに生きられます。次の世界のことは次の世界にいったら考えましょう。そのときはまた、次の世界でご相談にのらせていただきますから安心してください。」
とお答えしておきましょうか。

ずるいですか?

でも、これが、誰もが今を幸せに生きる為の最もよい方法だと思いませんか?。

だって、所詮、人間がいくら考えたって解らないのですから。

にも関わらず、なぜ私が、葬儀などで「仏様の住む浄土(じょうど)に旅立った」と説明しているのかについての話をしはじめるととても長くなってしまうので、今回はこのへんで終わりにします。またいつか機会があったら話しますね。

それでは、次の法話を楽しみにしていてください。
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