平和学習 被爆体験講話 平和の原点は「人間の痛みがわかる心を持つこと」 |
この資料館は最近完成し,長崎の原爆の資料が展示されています。資料館に私の若き頃の写真があります。今の自分の姿と見比べて下さい。
自分は五一年前に被爆しました。自宅は山の上にあり,県立工業学校まで友人七人 (被爆後の短い月日の後にA氏以外の六人は亡くなられた)と一時間半かけて通学していた。その日は八月九日であった。空襲警報が鳴り山に退避した。警報が鳴りやんだ後,のどが渇いたので長崎商業学校まで水を飲みに行くことにした。途中に農家がありそこにつるべ井戸があった。水を飲むために顔を上げ空を仰ぐと真っ青な空に落下傘が落ちてくるのが見えた。そして閃光が走った・・・・。40m余先のたんぼに飛ばされた。どのくらい時間が経ったかわからないが水の冷たさで気がついた。第六,八肋骨が折れ五一年後の今もそのままである。二八〇〇〜三〇〇〇度の熱線を受けたが,イカを火であぶると丸まるように,強い熱のため背を丸めたため顔は大丈夫だった。皮膚がはがれ肉に泥がついていた。山に上った。焼けただれた皮膚の代わりに木の葉を貼りつけた。多くの人々が呻きながら街に向かって歩いていった。眼球が飛び出し垂れ下がっている人,首のとれた人,炭素化した人・・・・凄惨な光景が目の前にあった。多くの人が浦上に向かった。死体を踏み越えて川に向かった。水を求めて川に入った人の多くは力を失いそこからふたたび顔を上げることはなかった。それまでの学校での朝礼で校長先生から「水を飲みたいときに辛抱できる人間になれ」と教えられていたので自分は水を飲まなかった。ふたたび井戸に戻ることにした。歩くうち皮膚につけていた葉が落ちていた。焼けただれた皮膚に当たる太陽の熱さは,焼き鉄板にのせられたような痛さだった。陽が落ちてから少し楽になったが顔がただれてきた。
夜になり前を歩く人の男女が区別できないほど目が見えなくなっていた。夜の涼しさで全身が震えた。「死んでもいい,水を飲もう」と誰いうでもなく通る人に頼んでみたが,人々は他人のことなどかまっていられなかった。T君が「A,帰りたか」と言った。彼は一晩かけ帰宅した。
私たちはその後諫早の総合グランドに寝かされていた。母は「A,A・・・・」と呼んで探したが同じような体格の人々の中から息子を見分けられなかった。母はそこに寝ている人の一人づつに耳元で名を呼んでまわった。私のところにきて名を呼ぶとハッと目を開けたので息子とわかったという。母につれられやっと帰宅することができた。油紙をしかれて寝かせられた。暫くの後,皮膚が悪化した手足からは虫が湧きだしてきた。うまく取り出すことができなかったので,割り箸で取った。あまりの痛さに叫んだが,取り続けた。そして,ハサミを熱して肉を切り取った。
大村海運病院で治療を受けた。ペニシリンを使った治療で目が見えるようになった。年が明け,三回目の手術で皮膚移植に成功した。退院のために大村駅まで送ってもらった。人々は私を好奇な目で見た。その視線に絶えられず下を向き涙が止まらなかった。わんわんと泣いた。長崎までゆけば同じようなけが人がいると思い帰りを急いだ。途中汽車が止まるたびに乗車する人の足が自分の1mも前で止まった。顔が上げられなかった。涙でまわりが見えなかった。長崎までの一時間半が長かったことは想像を絶するものであった。長崎駅まで来ても,健康そうな人々だけだった。下を向いてわんわんと涙を流しながら一時間かけて家に帰った。近所の人が見舞いに来ると言ったが断った。近所の人たちの自分を見る目がたまらなかったのです。
髪が伸びてきた。近所の散髪屋に母が頼みにいってくれたので出かけた。人々がやってきた。私のことを見ないと思いうれしかった。だが,散髪屋の鏡に写る姿を通して私を見ていたのだった。鏡の中で視線が合うと視線をそらした。それが悲しくて散髪の途中で家に帰った。その後家の中に閉じこもりきりの生活を続けていたが,母に「一生家の中にいられないだろう」と言われ,少しづつ散歩するようになった。だんだんと散歩になれてきた。だが,途中で顔を合わせると人は視線を下にそらした。そして足音が速くなった。その後に足音が止まった。振り返って立ち止まって私を見ている姿を背中で感じていた。 自分は前本嶋市長に勧められて一〇年ほど前からこうした話を始めた。自分が元気な内に戦争の悲惨さ,核兵器の愚かさを伝えていかなければならないと思い,こうして話し続けています。
「平和」とは何でしょう。
辞書によれば「争いのない,安らぎのこと」とあります。自分にとっての平和とは,修学旅行のみなさんにこうした話しをすることができることです。皆さんには平和を考え二一世紀まで言い伝えて欲しいのです。 孫を連れてデパートのおもちゃ売場にゆくことがあります。よその子と視線が合うときに一〇人いると六,七人の子は私の顔を見て泣きだします。残りの子は親の後ろから顔を見せ,再び見るときには泣かないのです。こんなにうれしいことはありません。
平和というおみやげを持って帰って下さい・・・・・・・・・・。
平和の原点は,「人間の痛みがわかる心を持つこと」だと思うのです。その気持ちをしまい込んでいてほしいと思うのです。ケンカをしたいと思うことがあったら私の顔を思い出し,先にゴメンと言ってほしいのです。
最後になりますが,被爆して死亡した人の数は発表されているものより実際は多いのです。日本につれてこられた朝鮮の人たちの死亡者数は今も不明なのです。このことも知っていてほしいのです。
講師紹介(実名を避けます)
(財)長崎平和推進協会継承部会員
1945年8月9日 当時,長崎県立工業学校造船科2年生(13才)。
被爆地より850mの路上で被爆し40数m吹き飛ばされ,たんぼの中で気がつく。現在も長崎原爆病院および長崎大学病院形成外科で加療中。 1996年11月14日 九州方面修学旅行での平和学習講演を長崎市原爆資料館にて収録