波宜亭
波宜亭があったと思われる場所付近にある東屋 | 波宜亭近くにある臨江閣(迎賓館 明治17年建設) |
波宜亭は、かつての波宜亭に関する書類に「前橋市東照宮筋向ヒ坡宜亭」(萩亭ともいう)と刻まれている。筋向かいは斜め前のことだから、東照宮が現在の位置のままなら、波宜亭は現在の児童遊園地から臨江閣あたりだったようだ。波宜亭は元前橋藩士山本郷樹の創業による旗亭(きてい。茶店、料理屋など)であった。室生犀星、草野心平もここを訪れている。 「波宜亭」のある「純情小曲集」が刊行されたのは1925年(大正14年)で同書の「郷土望景詩の後に」で、 「軒傾きて古雅に床しき旗亭なりしが、今はいづこへ行きしか、跡方さへもなし」 と記している。また、1939年(昭和14年)に刊行された「宿命」では 「・・・既に今は跡方もなく、公園の一部になつてしまつた。その公園すらも、昔は赤城牧場の分地であつて、多くの牛が飼はれて居た」 とあり、現在とは大分様子が違っていたようだ。 |
波宜亭 少年の日は物に感ぜしや
われはその波宜 亭の二階によりて
かなしき情感の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
その欄干 にさへ記せし名なり。
「純情小曲集 郷土望景詩の後に」 波宜亭、萩亭ともいふ。先年まで前橋公園前にありき。庭に秋草茂り、軒傾きて古雅に床しき旗亭なりしが、今はいづこへ行きしか、跡方さへもなし。 「宿命」の「物みなは歳日と共に亡び行く わが故郷に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた」 『少年の日は物に感ぜしや われはその 悲しき情感の思ひに沈めり』 と歌つた ひとり友の群を離れて、クロバアの茂る校庭に寢轉びながら、青空を行く小鳥の影を眺めつつ |
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